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手足の動く限り [徒然日記]

 先日、古くからのご信者さんで、奥さんが三年祭、旦那さんが三十日の旬日祭と、合同の霊祭をお仕えいたしました。改めて奥さんの経歴を読み返してみると、旦那さんも八十二才まで、町のスポーツセンターの管理人の仕事をなさっていましたが、奥さんもまた七十才を越えてなお水産加工場につとめ、次には銭湯での番台、掃除、病院の付き添い、はては民宿のまかないと、ご夫婦揃っての働き者でした。
 
 教祖様の御理解に
「隠居は幾つ何十になってもするものではない。人は神が天地の内に働くようにお造りなされたのであるから、幾つ何十になっても手足の動く限りは働くのである。」
 とありますが、お二人は本当にこの御理解そのままで、大変なおかげをいただかれてのご帰幽であったなと改めて思い返しています。
 
 しかしながら、働き者故に、体がきかなくなり一人前に働くことができなくなってからの寂しさもまたひとしおにあられたのでは、とも思うのです。
 長年熱心にご信心なさっていたご信者さんで、毎日十時のご祈念にお参りになるほどのご信者さんがおられましたが、晩年によくこんなことを仰っていました。
 
 「先生は、まだ若いから分からないかもしれないけど、年を取って生産性が無くなることほど、寂しいことはありません」
 
と。私はその度に
 
「いやいや、長年世のお役に立って来られた訳ですし、少しゆっくりなさって」
とか、
「それでも信心する、祈るということにおいて、生産性があるじゃないですか」
 
などと言っていました。その方と接していて感じたことです。年を重ねるほどに信心は深まり、その信心をもとに家族や関わりある人々が救われていく、そうしたお姿を見ていたので、それは何よりの生産性であると思ったのです。
 
 とは言ってもやはり、年を取る寂しさ、一人前に働くことが出来なくなる寂しさというのはあるんだろうなとずっと心に残っていました。
 
 人は、社会の役に立つことで、自分自身の存在意義を無意識のうちに感じ取っていて、常に世の中に必要とされることを欲しているのかもしれません。
 
 そうであるなら、今を生きる私たちは、働く(仕事、ボランティア、主婦業、学業、育児などなど)、それが「出来る」ことにどれほどの感謝ができているでしょうか。「働くことで自分自身が活(=生)かされている」、そのことに気付くべきです。そうすれば、働く上での悩みや問題の大部分は解消されていくことでしょう。
 
 忙しく働いている人も嫌々仕事をしている人も、はたまた仕事に誇りを持ち得ない人、仕事に貴賤を感じている人、仕事にやり甲斐を感じている人や、その逆の人も、主婦業を軽く見ている人も、そうでない人も皆、働く事への感謝を忘れずに、
 
 「世のお役に立つことで自分自身が活かされている」
 
 このことを分かっていただきたいと願います。

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