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教師 [徒然日記]

「ななかまど」7月号と8月号、2回に掲載した分です。
以下、本文です。
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 今年、早稲田教会は布教八十五年をお迎えになります。十年前の記念祭の時だったでしょうか。記念祭の御用で早稲田教会に滞在していたとき、少し時間が空いたので伸びきった髪をさっぱりしたくて、近くの千円でカットしてくれる床屋チェーン店に入ったときのことです。
 カットを担当してくれたのは、私よりちょっと若い感じのお兄さんでした。何故そのような話になったのか覚えていませんが、今の学校の先生は大変だという話になりました。
 
 当時、学級崩壊(主に低学年クラスに多く、先生の言うことを聞かず生徒達が自由に走り回ったりなどして授業にならない状態のこと)やいじめ問題、モンスターペアレンツ問題(学校などに対して自己中心的かつ理不尽な要求をする親のこと)といった事柄が、社会問題として大きく取り上げられていた頃だったと記憶しています。
 そのモンスターペアレンツ問題で、お兄さんが話してくれた事例が、大変驚きでした。
 
 ある親が授業参観に行くために会社を休んで行ったそうです。するとその親は学校側に会社を休んで来たのだから、休んだ分の給料を保証しろという要求を行ったそうです。開いた口がふさがらないとはまさにこのことです。大変驚いたことを覚えています。
 
 さらにそのお兄さんは、独自の見解を述べていました。そもそもそうなった理由についてです。
 今の時代は、親の方が学校の先生より頭が良くなってしまったからだと言うんです。親が頭が良くなったことで、学校の先生は、尊敬の対象ではなくなったということなんですね。
 
 確かに一昔前、今ほどの大学進学率ではなかった時代は、学校の先生と言えば、大学を卒業したとても賢い、教養豊かな聖職者としての側面を備えていて、多くの親達からも尊敬の眼差しを向けられていたように思います。
 
 ここまで書いて、私が何を言いたいのかと申しますと、この問題は何も学校の先生だけの問題ではないということです。
 同じようなことが、金光教教師についても言えるのではないか、一昔前とは違いお道の教師が尊敬の対象ではなくなってきているそんな危機感を覚えるこの頃です。今のところ広前崩壊やモンスター信徒といったような事は聞きませんが、教師の質の低下などは言われ始めて久しいようです。
 
 昭和五十五年に金光教教典が刊行されました。教祖様が人々に説かれた教えや教祖様ご自身の生きられ方などつまびらかになったことはとても尊い事で、当時、本教団においては大変な出来事でございました。これによって誰もが教祖様の御事跡に触れ得、誰もが教えを知り得るようになり、教義的にも大きく展開することになりました。
 
 一方で、国の教育水準の上昇にともなって、教典の発行やその他多くの書物への理解は深まり、信徒の信仰に対する知識レベルも大いに上がってきたわけです。ここにおいて前述した学校の問題と同じように、教師よりも上になった信徒、あるいは信徒よりも下になった教師が増えてきている、という現象が起こっているように思います。
 
 だからと言って、そうした知識の向上が悪いことだと言うのではありません。問題なのは、あくまでも教師が尊敬の対象ではなくなるということです。上下関係において教師も信奉者も対等であるという考え方はかなり古くからあるようですが、今では、もっと進んで教師よりも上だという意識が多くなりつつあることに問題があり、そう思わせてしまっている教師の質に問題があるのだと思います。
 
 教師も信徒も同じ人同士であるから対等であるということはありますが、教師は天地の親神様に直接お仕えする身であるということを、教師も信徒も忘れてはなりません。そういうお役、立場にあるからこそ、尊敬ということがあるわけです。そこを外してしまっては、教師も信徒もおかげを頂くことはないと言われています。
 
 そんなことを考えていたある日、テレビのニュース番組の特集で、ヨーロッパのある国の教育事情についての報道が目にとまりました。どこの国だったか、随分前のことで忘れてしまいましたが、ヨーロッパだったということは覚えています。
 
 その国でもその昔、日本と同じような社会問題に悩まされ、採られた施策が大学を卒業しただけではなく、大学院といった様に、さらに教員となるための専門の教育を受けた者のみが教員の資格を得るといったように、教員の質の向上を国を挙げて取り組んだといいます。
 その結果その国では、教師が再び尊敬の対象となり、学級崩壊といった問題は陰を潜め、平均学力も大いに上がり、子供達のなりたい職業ランキング上位に学校の先生が挙げられる程までになったそうです。親からも先生が再び尊敬の対象として見られるようになったということでした。
 
 本教においては今日まで、猫も杓子も教師になれるという制度が長く続いています。時代社会の変遷と共に、制度自体を真剣に考え直す時期にきていると感じるのは一人私だけではないと思うのですが、いかがなものでしょう。

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